ハイマツ帯

たまに更新できればいいな

春六題

 この間様々なことがあり、次第に生活が厳しくなってきている。

 実生活が殺伐とするにつれてブログを書く気力も無くなってすっかり日数が経ってしまい、そろそろ皆様にも忘れ去られてしまった頃であろうと思われる。

 

 仕事は一言で言うと無茶苦茶愉快で虚しいという感じだろうか。特にお盆の前はあまり睡眠時間が取れない感じであった。徹麻で鍛えておいて本当に良かった。今やってる意味不明の仕事は今月24日の謎の会議で一段落するはずであり、そこから私の夏休みが始まることになる。

 忙しいと言っておきながら、7月には京都に戻ってあけぼのに行った。しかも大人の事情で二回も。いつも通り値段が不明の瓶ビールをみんなでガバガバ飲みながら、いつまでもこのぼろぼろの座敷を心に留めておきたいなとぼんやり思った。

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 仕事も私生活もあまりよいことはない。いろいろあったがめんどい(と言うか記憶が曖昧)のでもう終わってしまう。

春寒

 今住んでる下宿は形態的にはマンションに分類される。そのせいかどうかは知らないが防音性が高く、周りの生活音が聞こえることがまったくないし、窓を閉めれば車の音も聞こえない。まぁ、私の周りの住人がみんなごく静かに生活してるだけの可能性はある。

 京都時代の下宿はアパートだったので周りの音がよく聞こえた。2013のWBCの時とかは他の住人の拍手の音が聞こえてきたりした。普段は静かなのに時々異常に奇声をあげる住人もいた。上の階の住人はたまに人を呼んでパーティーしてて騒がしい時があったが、こちらも一人で早朝まで飲んでいて彼らが帰っていってしんとすると、なぜか祭りの後のような感覚を覚えたりするのだった。窓を閉めても防音性がいまいちで、変な集団が何かを唱えながら早朝歩いていくのが、部屋の中までたまに聞こえてきた。

 

 この間、様々なことがあった。

 六月前半に謎の試験があった。受かったところであまり私の人生の影響を与えそうにないが、まぁ少しだけ箔がつくかなという感じの試験である。多分受かったと思われるが、合格発表日も発表方式もわからないのでなんとも言えないものがある。

 六月後半に謎の試験があった。こちらは受かると人生に多大な影響を与えるが、まともに勉強した期間が一か月に満たないという状況で、感触としては順当にいけば落ちただろうが運が良ければ受かったかな、という感じである。某k大経済学部の期末試験で例えると、試験数日前から焦ってそれなりの準備をして、試験当日にはまぁそれなりに正解っぽいことを書き、まぁ60点くらいはとれたかなと思ってたら結果は50点だった、みたいな時と同じような感触である。落ちて元々だと思っているので、あまり気にせずにいきたい。

 

 ここ数週間はそれなりに無茶苦茶きつい時があった。しかも思い返してみると、特にこれがきつかったということがなく漫然ときつかった。沢で例えると、結構な傾斜の藪の巻きで、特に難しいところはなくても危険で気が抜けず、しかも長くてしんどいという感じである。そういうわけであまり書けることもない。こうして季節は過ぎていくのである。

 

 今週末はラストあけぼのに行くために京都に帰る。

球根

 様々なことがあったのだがblogを書く余裕が無くて書いてなかった次第である。

 この間オフ会に何度か呼んでいただきありがとうございました。某フォロワー(p氏)によるとtwitterはpairs以上の出会い系ツールであり、生ハメSNSとして本来の力を発揮するとのことであった。こんなことは会社では学べないことであり、教えていただきありがとうございました。

 

 けっこう前のことだが、GWに大学の同期(アラビア語仲間かつ山仲間かつ留年仲間)の結婚式があり山口に行っていた。結婚式もなかなか良いものだと思った。皆様も一度くらい結婚してみてはいかがだろうか?
 帰りに京都に寄って部の後輩たちと南紀の沢に行った。帰りに南紀の穏やかな町で温泉に入ったり刺身食べたりしてほのぼのしてたら、なぜか精神が不安定になった。

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 会社については特に良いことが無いが、楽しいことは無いが、新人なので仕方ないが常に監視されているような気分である。そういうわけでだんだん何も言えなくなってきた。もっとも私はほっとくとめちゃくちゃなことばかり言うようになるので、必ずしも悪い状況でも無いと言える。

 

 最近はまっとうな人生を歩みすぎていると思うので、もう少し破綻しても良いような気がしている。

今日、また俺は一日を棒にふった。人生は棒にふれ。しかし一日はもっと大切にすべきだ。

 

芝刈り

 なんとも言えない日々が続く。

 研修も終わり配属され、ようやく仕事らしきものが始まっている。私の所属は性器部陰嚢課というところで、日本軍で言えば参謀本部か軍令部あたりだろうと思われる。

 研修では当初、なるべく協調外交的な態度で挑んでいたが、当然途中でめんどくさくなり、結局は孤立気味になっていた。やむを得ないことである。とりあえず1か月終わってみて点数的には13,400点といったところだろうか。ここでどうでもよくなって初手からいきなり降りたり、なんとなくオタ風を鳴いたりすると、大体負けが確定するので注意が必要な状況である。

 

 ところで先日、大阪と神戸に泊りで研修の出張があり、それ自体は特になにも無かったが、金曜日の夕方から京都に寄った。味〇へ行ったあと、あけぼのへ移動して部の者どもと飲んだ。その後は部室で早朝まで飲むなり打つなりして寝たが、結構な人数が気絶していたせいでなんだか壮観であった。

 翌日、7時ころに起きて岡崎のほうに散歩に行った。ここらへんは人があんまいなくていつも楽しい。金戒光明寺のあたりをぶらぶらしていたらおじさんにここの山門はすばらしいんじゃよと話しかけられた。真如堂は花盛りでとんでもなくきれいだった。吉田山は新緑で気持ちよかった。町をぶらつきながら、自分はもうk大生ではなく単なる外来者として蹌踉と歩いているのだなと思った。丸太町で紅茶を飲んで東京の下宿に帰った。終わり。

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 そういえば真如堂でおみくじを引いておいた。

〇悦事なし

〇待人来らず

〇病人長引あやふかるべし

〇争事まけなり

〇生死は十に六七は死すべし

 

 つまり、漫然と生きていても仕方がないという運命が暗示されている。

病室の花

 7年間暮らした京都をついに去ることになった。

 18日には部の奴らであけぼのに行った。もはや見飽きた顔達(向こうも同じように思っているだろう)だが、これからはそうそう見られぬことになる。あけぼのももう閉じてしまうので、学生の間に一回行けて良かった。

 19日、20日と引っ越しの準備をしていたが、家具があまりに貧相な割に、本やCDが多すぎて我ながらビックリした。そんなわけで結構な量の本を譲渡したり、本の代わりに服を捨てまくったりして忙しく働き、ようやく準備が整ったのは20日の深夜27時だった。ダンボールに囲まれながら、ガヴリールドロップアウトなど観てビールを飲んでいた。こんなことでも感慨深かった。

 21日にいよいよ荷物の搬出であった。カラッポになった部屋を見て、今更ながらこんな小さな空間を自分の天地にしていたんだなと思った。六畳一間というのも不思議な空間で、私はこのスペースを狭いと思ったことがほとんど無い。それどころか、たまに底知れぬ深さを感じたりもしていた。ここは私にとっての小宇宙であった。なんだそれ。夕方、手伝いをしてくれた部の後輩の一人といつもの味○に飲みに行った。と、マスターにいきなり名刺入れを渡された。卒業祝いとのことだった。驚いた。嬉しかった。この日は初めてステーキを注文したが、とんでもなくおいしかった。また来なければなと思う。

 家に帰ってから、寝袋にくるまり最後の晩酌を噛みしめていると、後輩が三人やってきた。もう最後だからということで訪ねようと思い立ったらしい。玄関でしばらく立ち話をして別れた。その時は驚きのほうが勝っていたが、一日立って思い返すとありがたさが募るし胸が苦しくなる。その晩は27時過ぎまで一人でしんみりと飲み続けた。過去、この下宿で本当によく一人で飲んだ。他人と飲むのも(相手によるけど)好きだが、多くの場合それはいくらかの緊張感や疲労を伴う行為である。完全にリラックスし、心が休まり、ゆっくり物思いにふけったり、くだらぬことを考えたりするのは、やはり下宿で一人で飲む時であった。これは一生変わらないと思う。

 22日朝、鴨川を見に行き郵便局に寄った後、部屋の点検があってこれにて下宿を退去することになった。下宿のすぐ近所にある酒屋に挨拶に行った。ここは私が二回生の頃から通い続け、数えきれないほどのビールや金麦を買った場所だった。この店のせいで飲酒が捗りすぎたような気もする。生ビールチケットが余っていたので一杯頼み、残りのチケットは店で預かってもらった。またビールを飲みに来なければならない。裏の公園で飲んで、ここらへんともしばらくおさらばだなと思って出発した。昔を思い出しつつ哲学の道を歩いていると、業者から電話がかかってきて、粗大ごみに貼りつける券が足りないから買って貼りつけに来いと言われた。そんなわけでせっかく気持ちを固めて出発したのにまた下宿の前に戻るはめになった。それからは本当にお別れで、平安神宮知恩院に寄り、木戸孝允の墓に参って名古屋の実家に帰った。

 

 7年間はさすがに長かった。小学一年生が中学生になっている長さである。今の一回生は私が入学した2010年にはまだ小学生である。京都に住みたくてこの大学を選んだので、ある意味しあわせであった。

 京都が快適だった要因は、街と川や山との距離感であったと思う。文化財がいっぱいある街なら他にもあるだろうし、ただ自然が豊かな場所ならいくらでもある。京都はその両者が一体となって独特の雰囲気を形成していた。ちなみに2010年2月、大学受験のために京都を訪れたときに書いた日記によると「京都に着いて、まずうれしいのは、遠くに山が見えることだ。そして、高いビルが無いから街に開放感が溢れるところとか、賀茂川(注:鴨川)が穏やかに流れているところなども、やはりうれしいことだ。」とのことらしい。

 学生生活において最も重要だったのが部活動である。役に立つことも役立たずなことも学んだ。しかしこれはあまりに内容が膨大なのでここでは省略する。ただ、よみがえってくる7年間の思い出は9割以上が部活関係である。

 どくとるマンボウ青春記という本がある(著:北杜夫)。学生生活のなかで最も親しみ、ふとした拍子にお気に入りのページを開いたりする本である。最初に読んだのは一回生の夏、知床に行くために乗っていた舞鶴-小樽のフェリーの中であった。私はいたく感動し、こんなバンカラで、一方で思索にふける学生生活を送らねばと思った。しかし振り返ってみると、私はこの本に述べられているうちで感傷的な面ばかりが身についてしまった。この日記を読めばわかるとおりだが、これだけ感傷的だと、引っ越しをするだけで心が痛んで大変である。ところで青春記には色恋沙汰が北杜夫氏の体験としては全然出てこない。出てくるのは男と自然ばかりである。この点については私もまねすることができ、思い出の中に登場するのは男と山ばかりである。

 以下、若かりし頃の北杜夫氏が松本を出る際に書いた詩の一部を引用しておく。

この街は。おれの稚さが住んだ街。そりやあ懐しさは湧くだらうよ。悔しさはつきまとふだらうよ。むさぼり眠る汚なさの。ごみごみとした愛情の。あとは知らぬといふだらうよ。街は緘黙。喪心に四方は回転。

 

 さて、他にも色々と思うところはあるが、とりあえずここまでにしておこうと思う。

 ひとことだけ付言すると、様々なことがあった。